入来屋の歴史

入来屋の歴史は古く、その起源は延享元年(1744年)。
当時入来屋は長崎奉行所が幕府の方針により、唐船貿易品に俵物と諸色の輸出を主にするようにとのことになったので、長崎商人方のうち、帯屋荘次郎、岸八平衛、播磨屋九八郎とともに入来屋新右衛門も加わり計8名にて、奉行所の協力のもとに、全国に手配して俵物、諸色1800貫目を集荷し俵物会所に納入していました。

俵物とは、俵に入れ唐船に輸出した煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)を言い、諸色とは一般海産物のことをいいました。

さらに、入来屋は長崎商人仲間と共に、唐蘭船によって、舶載されてくる当時としては貴重品であった砂糖、鼈甲、薬種も取り扱い、薬種類は主として大阪近江屋長兵衛商店(後の武田薬品)に送っていました。

安政の開国後は、長崎には、諸外国船の入港が増加してきたので、小麦粉、その他多種類の食料品を輸入すると共に、外国船にも多くの食料を輸出していました。

入来屋 年表

1744年

延享元年

長崎奉行所の令を賜わり 入来屋新右衛門にて創業

1868年

明治元年

脇山啓次郎が、これらを継承

1921年

大正10年12月

組織を合資会社

1956年

昭和31年

株式会社 入来屋商店

1987年

昭和62年5月

株式会社 入来屋に、社名を変更し現在に至る

現在、株式会社入来屋は、延享年間より続けております砂糖をはじめ小麦粉、その他の食品全般、健康食品の卸業として、営業を行っています。

入来屋の歴史と長崎の食文化

長崎の郷土史家・越中哲也先生より「長崎年中行事抄ー脇山家おぼえ書き」に寄稿していただいた文章より、抜粋して掲載いたします。

入来屋の当主・脇山家は、江戸時代よりの長崎の旧家で、その家には、文化的に貴重なものが様々に伝承されてきている。とくに、長崎の旧家における年中行事の伝承は今ではほとんど見られないものもあり貴重なものである。

脇山家関係の古文書は、天保9年(1838)4月4日夜、小川町與蔵宅より出火、数十町延焼大火となった事があり、(続長崎寶録大成 巻12年表拳要)その火災中に本五島町の脇山家も全焼している。

当時の記録を見ると、
○本五島町 八十九軒 土蔵四戸前 黒田播 磨屋舗壱軒焼失
また隣町の浦五島町、樺島町、船津町も全焼している。

この火災により脇山家は仏壇をはじめ家財全部を焼失している。

その後、昭和44年4月五島町78(旧本五島町23)にあった入来屋元砂糖店表の蔵を建てかえのために整理したこところ、先祖の位牌があった。それには祖父兵五郎が神道改宗の時に、整理しておいた物と思われる位牌書があり、それによると、脇山家は嫡子久米蔵の死後は次男常次郎が家督をついだようである。

常次郎は天保9年4月4日の大火後の4月12日に44歳でなくなっている。また常次郎の妻・しなも同年4月5日大火の翌日6日33歳でなくなっているので、夫妻共に火災により死去されたと思われる。しなの肩書に「町内天田武助娘」と記してある。その天田家の過去帳の写しが脇山家にあった。それによると、しなの父本五島町天田武助は筑前の出身であったようだ。

脇山家の家督は常次郎の嫡子兵五郎良信が継いだ。

兵五郎と後妻ゑんとの間に長女うた(安政2年6月2日生)がいる。うたは、浦五島町の徳島家に嫁したが、明治19年に離別し脇山家に復帰。家業の砂糖商を援助の功績を残している。

ついで安政6年10月には後妻との長男啓次郎良規が生まれ、ついで文久2年に女阿きが生まれ、元治元年には嘉七郎が生まれた。脇山兵五郎良信の位牌書にには「中興開山」と記してある。兵五郎は文政3年生まれで、天保9年の大火時は17歳であり、この大火で家も両親も失ってしましまったことになる。

脇山兵五郎翁のこと(脇山寛の控えより)

兵五郎は「鼈甲細工を業として居た」と記してあるが、勤皇の志強く所謂勤皇の志士丸山作楽等と出入りしていた模様である。脇山家には丸山作楽に書いてもらった書が現在もあると記されている。

寛氏は兵五郎伝に筆を加えてこの兵五郎は、明治維新の際、敬神の念厚く勤王家であった故に諏訪神社宮司、国学者、勤皇志士等と交際あり、当時宮禄を食む者は皆神道に転向、庶民は神道になるには特別の許可を要したが、国学者達の感化を受けて明治2年脇山家は神道に改宗した。

脇山啓次郎の事

啓次郎氏のことについては、昭和32年12月、脇山寛氏によった「脇山啓次郎翁之記」に詳しい。

啓次郎は父兵五郎の後妻衣牟の長男として安政6年10月16日に生まれ、幼少の頃約7年間東上町(現玉園町)篠山私塾に学び、明治5年6月明治天皇長崎巡幸の時、御給仕役を命じられ、県知事(県令)宮川房之より「一、御褒美 金百疋。一、筒袖襦袢料 金二百疋」を拝受している。明治13年(21歳)本五島町相部清三長女・とも(15歳)と結婚している。相部家は入来屋と称し、砂糖、海産物,木獵等の貿易商であったが、後は砂糖、麦粉、肥料を取り扱ったとある。明治16年4月16日金毘羅凧揚げの時、清三は足を踏み外し崖より落ち死亡、啓次郎はこのとき同行していたと記してある。

当時、清三の長男の政吉は十歳前後のため入来屋の家業相続は困難であったので、啓次郎がいり気やの家業相続は困難であったので、啓次郎がいり気やの家業を全面的に営業運営したと記してある。以来、啓次郎は板屋貝(貝柱)の唐船の取引で財を成し、更にリンガー、ジャーデン、ブロウン等と主として香港経由で輸入された甜菜糖の取引で成功、明治3年には長崎貿易商集会所委員、明治29年3月長崎商業会議所常議員、昭和8年同会議所会頭。その間、明治28年3月より明治40年3月まで長崎市会議員(2期)を務め、大正元年、長崎紡績KK創立発起人になって以来、長崎無尽KK創立、長崎電気瓦斯KK取締役、九州電燈鉄道KK取締役、九州商船KK取締役、盗用製氷KK取締役、九州製菓KK創立監査役、長崎銀行創立発起人、小浜鉄道KK取締役等その功績が多く記されている。

また、家記に次のように記してある。

啓次郎良規  昭和15年8月18日没  行年82歳

一家ノ為メ ノミナラズ長崎市商業界等ノ為メニ大功アリ。商工会議所葬ヲ以ッテ葬ラル  盛儀比類ナシ  紀元二千六百年啓次郎妻ハ慶応元年五月十八日筑前博多相部清三長女トシテ生レ十五才ニシテ脇山家ニ嫁シ以来終始一貫家政ヲ励ミ内助ノ功頗ル顕著ナルモノアリ 近隣婦人ノ亀鑑トシテ敬慕セララル  昭和十八年十月十七日没  享年七十九才

脇山啓次郎翁之記の巻末に「思い出の記」があり啓次郎翁を中心にした当時の長崎の風俗描写が記してあるので其の中より、2、3を記すことにした。

一、

年末十二月三十一日店の倉出が終わると倉閉め納めをなし、集金等店の終わるのは午前二時過すぎとなり 其れより店員一同と運気蕎麦の膳に座り賞与金を与へ……

一、

​節分の夜は豆撒きをなし家族一同にお膳を出す。鬼の手(赤大根)、鯨(尾羽)、金頭等……其れより神参に行く。

一、

毎年四月下旬小島の淀川ツツジ身頃になると「無沙汰拂い」として日頃親しき人達を毎晩十人位一週間以上十日間招待した。

一、

啓次郎は芝居が好きで、名優(千両役者)が来ると毎晩、芝居小屋の枡を買って見物させた。この時、長崎に良い芝居小屋(劇場)がないので岡部忠太郎(岡政社長)沢山雄八郎(沢山商会〕高見松太郎(十八銀行)等で南座を会社組織とし、興業は御厨勝一氏に一任した。

啓次郎が敬神家であったことについて同記は次のように記している。

一、

敬神家であった啓次郎は大村町大神宮の世話をまかされた。之は亡父兵五郎翁が伊勢より御分霊を請け大村町大神宮を創立した伝統である。

一、

啓次郎、若かりし頃は撞球が好きで大村町商会所に出かけている。

一、

茶も好きで、老後は長崎古賀の宅で茶を楽しんでいた。

一、

酒は三杯も飲めば眠くなる人であったが、宴席は好きで七十才を越しても、長途の旅行より帰られても、其の夜宴席があれば出席した。

一、

芝居が好きで、千両役者が来れば必ず毎晩芝居小屋の枡を買い、姉ウタ刃自をはじめ家族を交えて見物させた。長崎の南座を会社組織で作り興業は御厨勝一氏に依頼した。

おわりに

私が長崎地方の食の文化を書き始めたのは、昭和55年1月の西日本新聞に「長崎味覚歳時記」と題して文を起こし、同年の12月まで41回掲載させていただき、その後、それらを集めて長崎純心大学博物館より「長崎学・食の文化史」として、平成7年「其の1」を発刊していただいて以来、各方面に食の文化史を書かせていただいている。

私の小さい頃の長崎の「朝めし」は「お粥に漬物」か、「茶漬けに漬物」だったが、近頃は朝から味噌汁が用意されている。然し中国では今でも業食には「お粥」が用意されているし、京都でも「昔はお粥だった」とお聞きしたことがある。

長崎の朝の茶漬けもその伝統によったのでありましょうか。

また、私の子供の頃には「かながしらの茶漬」を食べたり、下に落とした飯粒は「ひろって食べなさい」と言われていたが、今ではそのような食の習慣はなくなったようである。」
「食の文化」は時代と共に変わっていくのであるが、昔の食文化のよきところは残しておきたいと考えている。

最後に、長崎には「長崎の味」があると各方面よりいわれている。其の味は「どのような味」を言っているのでありましょうか。
其の「長崎の味」求めている。一般に長崎の味覚は南蛮、唐、紅毛異国の薫りであり、それが京風の上品さを加えたものが其れであると言われる。私達は其の風味を求めて行きたいと考えている。

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